ときめきは桃色のくちびるに!

 ここは麗鋒国の京師、景遥。
 都の北に位置する皇城の一角――龍翔宮は、官庁街における皇帝陛下の御座所である。
 ある晴れた日の昼下がり。宰相・範理央が主君の部屋を訪れると、敬愛すべき皇帝・鋒天綸が鏡を前に口の端を押さえ、百面相をしていた。
「……何をなさっておいでですか」
 天綸は几案の上に置いた鏡から目を離さずに答える。
「ああ、むふむふの練習だ。しかし――やろうと思ってもなかなかうまく出来ぬものだな。花蓮の口は一体どうなっているのだ」
「……」
 理央はこれ見よがしに吐息をこぼした。
「あんな変質者の口の動きなど、真似をしてどうなさるのです。アヒルの口真似を練習する方がまだマシです」
「なんだと?」
 天綸は鏡から顔を上げ、理央をじっと見る。
「そんなものはとっくにマスターしているぞ。ほら」
「……!」
 おもむろに可愛らしいアヒルの口を作ってみせた天綸に、理央は「くッ」と眉間を押さえて俯いた。
 どうしてこの方はこう、無駄な技術ばかり習得してゆくのか……!(アヒル口の皇帝など、威厳がないにも程がある……!)
「ところでな、理央。この練習をしていて、ふと気になったのだが」
「は……?」
「花蓮は、一日平均で何回むふむふするのだろうな? やはりあの軽快なむふむふ笑いは、日頃の訓練の賜物なのだろう」
「……」
 そんなことは宇宙の果てまでどうでもいい。沈黙を返す理央に対し、天綸は楽しそうに立ち上がる。
「ひとつ花蓮の生活を観察して、数えてみるか」
 おやめください――そう言ったところで、聞き入れる主君ではない。理央は深い深いため息をつき、部屋を出てゆく天綸の背を見送ったのだった。
 

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 そうして花蓮の一日を観察してみようと思い立った天綸だが、考えてみれば午前は朝議があるのだ。どんなに頑張っても後宮へ行くのは昼頃になる。
 自分が動けない間をどうしようか――思案するうち、赤毛の侍女の顔が脳裏に浮かんだ。そうだ。花蓮の傍にいつも仕えている鳴鳴ならば、正しい記録を取ってくれるに違いない。
 さっそく後宮へ出かけた天綸は、鳴鳴を掴まえて頼んでみた。
「花蓮が朝起きてから私が来る昼までに、何回むふむふするのか数えておいてくれぬか」
「は……?」
 鳴鳴は目を点にしたあと、眉をキッと吊り上げた。
「どうしてわたしがそんなことをしなければならないんですか!? お嬢様は生態を観察されるような珍種の動物じゃありません!」
 鳴鳴に断られたので、今度は宦官の張世容に頼んでみることにした。
「はい――花蓮殿がむふむふする回数を記録すればよろしいのでございまするな。かしこまりましてございまする」
 世容は二ツ返事で引き受けてくれた。大きなことには役に立たないが、こういうどうでもいいことには(いや、どうでもよくないが!)使える小物である。
 しかし――。
 翌日、世容が花蓮の部屋に張り付いているのを見つけた鳴鳴は、すぐに天綸の指図だと気がついた。
「ちょっと張様! 陛下の命令だからって、変質者みたいなことしないでください!」
「そう言うでない、鳴鳴。これもすべて、陛下の花蓮殿への深いご寵愛ゆえ。陛下は花蓮殿の得難いキャラクターに興味津々なのだ。花蓮殿は、その魅力を知れば知るほど離れられなくなる魔性の娘御なのだ」
「お嬢様は魔性なんかじゃありません!」
 そう言い合っているところに、当の天綸が現れた。
「おお、世容。記録は取れたか?」
「ばっちりでございまする。まず今朝の花蓮殿は、起きた時からむふむふしておいででしたな。夢見がよろしかったのでございましょうなあ。それから朝餉を召し上がったあとも」
「張様、お嬢様のプライバシーを売るのはやめてください!」

 

 一方の花蓮は――。
 部屋の外が俄に騒がしくなったので、不審に思って廊下へ顔を出した。
「鳴鳴、何を騒いでるの? なんか張さんと陛下の声も聞こえたみたいな――」
「そうだ、私もいるぞ。声を聞き分けてくれて嬉しいぞ!」
 鳴鳴と世容を押し退けて、天綸がずいと前に出る。それに対して花蓮はあからさまに面倒臭げな顔になる。
「なんですか陛下、何か用ですか?」
「ああ、おまえにぜひ教えてもらいたいことがあって来たのだ」
「へ? 教えてもらいたいこと?」
「むふむふを教えて欲しい」
「は……?」
 天綸は花蓮の肩を抱いてずんずん室内へ入り、榻に並んで座って居住まいを正した。
「さあ、むふむふしてみてくれ。私に手本を見せてくれ」
「急にそんなこと言われても……」
 花蓮は困惑して両手を頬に当てる。
 そもそも、自分がむふむふしているというのも人に言われて気がつくことで、わざとやっているわけではないのだ。
 天綸から期待に満ちた眼差しを向けられて、余計にどうしていいのかわからない。
「――もう陛下、くだらないことで押し掛けてくるのやめてください! 私、いろいろ忙しいんですから」
 そう言って立ち上がり、読みかけの本を手に取ると、ちょうどいい場面だったことを思い出して口元が緩んだ。
「そう、それだ!」
「へっ?」
 天綸が傍に寄ってきて、じっと顔を覗き込む。
「お? むふむふが止まった……。ふむ……。意識的にやっているのではないということか?」
 首を傾げてつぶやいた天綸は、おもむろに両手を伸ばして花蓮のくちびるの端をつまんだ。
「ふみゃっ?」
 左右の口元をむにむに引っ張られて、花蓮は目を白黒させる。
 ――今まで陛下にいろんなことされそうになったけど、これはまた新しいパターンだわ!?
 呆気に取られて抵抗を忘れる花蓮の口を散々むにむにした天綸は、満足したのかどうかやっと指を離してくれた。――かと思うと、素早く顔を近づけてきて花蓮のくちびるをぺろりと舐めた。
「――なっ、何すんですか!?」
 眸を見開く花蓮に、天綸はしゃあしゃあと答える。
「いや、おまえのやわらかそうな桃色のくちびるを見ていたら、美味そうでちょっと舐めてみたくなっただけだ」
「私のくちびるは美味しくなんかありません!」
 真っ赤になって文句を言う花蓮と、悪怯れずにまた花蓮の口元をむにむに触り始める天綸。そんなふたりを、戸口から近所の妃たちが覗き込んでいた。
「何をやってるの、あのふたり……?」
「さあ、いちゃいちゃしてるんじゃない?」
「花蓮さんは厭がってるみたいだけど」
「そうです、お嬢様は厭がってらっしゃるんです、陛下といちゃいちゃなんかしてませんっ」
「いやいや、あれは正真正銘いちゃいちゃですぞ! 陛下もう一押し、頑張ってくださりませー!(私の出世のために!)」
「一押ししようが二押ししようが、お嬢様は陛下のことなんか眼中にありませんから! それより張様、なんか今言葉の後ろに変なカッコが付いてましたけど!?」
 部屋の中ではむにむに(いちゃいちゃ?)しているふたり、部屋の外では喧嘩を始める鳴鳴と世容。両方を見物して無責任に楽しむ梅花殿の妃たちなのだった。

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〔おしまい〕

(イラスト:犀川夏生さん)