ときめきはあなたの目の前に!?

 ここは麗鋒国の京師、景遥。
 都の北に位置する皇城の最奥――龍翔宮は、皇帝陛下の昼の御座所である。ちなみに夜の御座所は後宮にあるのだが、寵妃がつれないため、そこで夜を過ごせたためしはない。
 ――ああ、愛しい妃を腕に抱きながら後宮で朝寝が出来るのはいつの日か……。
 手強い妃のとぼけた笑顔を脳裏に思い浮かべつつ、今日も真面目に朝議へ出席して龍翔宮へ帰ってきた若き皇帝・鋒天綸である。
 私室の片隅に置かれた黄金張りの衝立。その陰には、寵妃を模した人形が座っている。朝議から帰ると、まずその『花蓮人形』に「ただいま」の挨拶をするのが毎日の習慣なのだが――
 今日もいつものように衝立に手をかけ、人形に話しかけようとして天綸は眸を見開いた。
「!?」
 榻の上にちんまり座っているはずの人形が、消えていたのである。
 床に落ちているでもない。部屋中捜し回っても、どこにもいない。
 つぶらなお目々にぷっくりお手々。可愛い可愛い私の花蓮人形は何処へ――!?
 頭を抱えて恐慌状態に陥っているところへ、冷静な声が飛んできた。
「どうかなさいましたか、陛下」
「――む、理央か」
 今上帝の信頼厚い宰相・範理央が無感動な表情で入室してくる。
「花蓮人形がいなくなったのだ。朝議に出かける前はいたのに――『いってきます』の挨拶をすると、手を振って見送ってくれたというのに……!」
「人形が手を振るわけがないでしょう。陛下がご自分で人形の手を動かしたのでしょう」
「……まあ、それはそれとしてだな」
 天綸はコホンと咳払いをし、はっと理央の顔を見る。
「まさか――私の人形遊びをやめさせようと、おまえが持ち出したのか!? 花蓮人形をどうした! 捨てたのか!? まさか……まさか、ずたずたに切り裂いて処分したりはしていないだろうな!?」
 詰め寄ってくる天綸の肩をとどめ、理央はため息をついた。
「何を血迷っておいでです。朝議の間、私はずっと陛下のお傍にいたでしょう」
「む……それもそうだな」
 天綸は首を傾げ、誰もいない榻に目を遣る。
「では、花蓮人形はどこへ行ったのだ。誰が持ち出したのだ――はっ、もしや」
 ポン、と手を打った天綸に、理央は厭そうな顔を向けた。どうせろくでもないことを言い出すに決まっているのだ。
「そうか、わかったぞ! 花蓮人形は自分の足で歩いて散歩に出かけたのだ! あの花蓮を模した人形なのだからな、いつまでも部屋の中に閉じ籠っていられるわけがなかったのだ」
「……」
 どうしてそういう発想になるのか――! あのちんちくりんに毒されたせいか! という理央の心中ツッコミなど気づくこともなく、天綸は得々と続ける。
「なんだ、外へ行きたいなら私に言ってくれれば、連れて行ってやるものを。皇城では花蓮人形と、宮城では花蓮と――仲良く手を繋いで歩くのだ。なんと素晴らしい生活だ――!」
 なんと地獄のような光景だ――! と顔をしかめたのは理央である。
 皇帝陛下が人形と手を繋いで歩く姿を皇城の人々に披露するなど、とんでもないことだ。人形がどこへ消えたのかは知らないが、このまま出てこなければいい!
 拳を握って人形の安らかな消滅を願う理央に対し、天綸はいそいそと部屋を出てゆく。
「きっと花蓮人形は広い皇城の中で迷子になり、私の救けを待っているに違いない。捜しに行ってくるぞ――!」
 頭がメルヘンな皇帝陛下を見送り、深い深いため息をつく宰相閣下だった。

 

 

 龍翔宮を出た天綸は、顔見知りの官吏三人組を見つけ、訊ねてみた。
「おまえたち、この辺りで大きな人形が歩いているのを見なかったか? 桃色の襦裙を着た、つぶらな眸の愛らしい人形なのだが」
 そんなことを訊ねられた三人組は、顔を見合わせてから口を開く。
「生憎、私どもはそのような不思議な人形を見てはおりませんが――」
「それはもしや、陛下が大切になさっている例の人形ですか?」
「あの人形は、歩くのですか」
「ああ、どうやら自分の足で歩いてどこかへ遊びに出かけてしまったらしいのだ。見かけたら、私のもとへ戻るよう言っておいてくれ」
「かしこまりました」
 頭を下げる官吏たちと別れ、人形捜しの旅を続ける皇帝陛下だった。

 

 

 一方、こちらは宮城――。
 皇帝陛下の寵愛を鬱陶しいほどに押しつけられている妃・淑花蓮は、今日もマイペースに城市へ遊びに出かけ、後宮へ帰ってきた。
 自分の部屋を目指して近道の庭を歩いていると、植え込みの陰で何やらごそごそやっている皇帝陛下を発見した。
「……? 陛下? 何やってるんですか?」
 近寄っていって訊ねると、天綸が驚いたように肩を震わせて振り返った。
「あ、ああ、花蓮か――」
「なんですか、泥棒してるところでも見つかったみたいな顔で」
「人聞きの悪いことを言うな。泥棒などしていないぞ」
「じゃあ、何をこそこそやってるんですか」
「ちょっと――捜し物だ」
「捜し物? なんですか?」
 無邪気な花蓮の問いに、天綸は少し気まずそうに答える。
「おまえの――人形だ」
「えっ」
 例の――私を模した人形!?
 花蓮は少し口を尖らせて天綸を睨んだ。
「どうしてそんなものをここで捜してるんですか? 陛下の部屋に飾ってるんじゃないんですか」
「それが……だな。部屋から逃げ出したのだ。捜したが皇城では見つからなかった。もしや後宮に迷い込んでいるのではないかと思ってな」
「あの人形、歩くんですか!?」
 花蓮は眸を丸くする。
「朝はきちんと部屋にいたのだ。それが、私が朝議から帰ると、忽然と消えていた。皇帝の部屋から宝物を勝手に持ち出す者などいない。人形が自分で歩いて遊びに出かけたとしか思えぬだろう」
「……何が宝物ですか。ただの人形でしょう」
 真面目に語る天綸に、花蓮は面白くない気持ちで足元を見た。
 ――つまりそれって、陛下が人形を可愛がりすぎて人形に生命が吹き込まれちゃって、勝手に動き出したってこと? そんなに陛下はあの人形を可愛がってるの……? 私が知らないところで、どんな風に……?
「しかし、人形は城の構造に明るくない。どこかで迷子になっているのではないかと心配でな、急いで捜しているのだ」
 事情を説明し終えると、天綸は再び植え込みの陰を覗いて回り始める。そんな天綸の一生懸命な姿がさらに面白くなく、花蓮はむっと頬を膨らませた。天綸の腕を引っ張ってこちらを向かせる。
「――陛下、目の前にいるのは誰ですか」
「ん?」
「本物の私がここにいるのに……どうして私そっちのけで人形を捜すんですか……。私より、人形の方が大切なんですか……」
 むにゅむにゅと言ったあと、人形にやきもちを焼いたみたいだと気づき、花蓮は慌てて口に手を当てた。
 ――べ、別に、そんなつもりじゃ……! 一国の皇帝が人形遊びしてるなんて、やめさせた方がいいと思ってるだけだし……!
 胸の中で必死に言い訳している花蓮に対し、天綸は軽く眸を瞠ったあと、小さく頭を振った。じっと花蓮の眸を見つめ、訊いてくる。
「おまえ――本当に本物の花蓮か?」
「……は?」
 てっきり、「やきもちを焼いているのか?」と自惚れたっぷりにからかわれると思ったのだ。予想外の反応に、花蓮はぽかんと天綸を見る。
「捜しても見つからぬと思ったら――また人に化けているのか? 花蓮のふりをして、私を誘惑して遊ぼうとしているのだろう。困った人形だな」
 そう言うなり、天綸は花蓮の腕を引き、ぽかんと開いた口をくちびるで塞いだ。
「! ~~~~っ」
 だからこの、口づけで本人確認する癖、やめてよ――!
 抵抗する花蓮を、天綸が驚いたように放した。
「――本物の花蓮、か?」
 花蓮は天綸をキッと睨む。
「陛下の馬鹿ー! 私が本物か偽物かくらい、こんなことしなくてもわかるようになってください……っ」
 そう言い捨てて、天綸の前を駆け去る花蓮だった。

 

 

 さて――。
 消えた花蓮人形はどこにいるのか?
 実は、城下の凄腕洗濯屋のもとへクリーニングに出されていた。
 それは今朝のこと――。皇帝陛下から花蓮人形の着替え調達係を命じられている宦官の張世容は、いつものように新調した衣装を抱え、陛下の朝議出席中に部屋へ届けておこうとした。
 そして、緻密な刺繍が施されたずしりと重い襦裙を人形の隣に下ろそうとした時、うっかり手が滑って人形を榻から転げ落としてしまった。慌ててたたらを踏んだ世容は、これまたうっかり、人形の手を沓で踏んでしまった。
 ――ああっ、陛下お気に入りのぷっくりお手々に汚れが……!
 叩いてもこすっても、汚れは落ちなかった。
 天綸がこの人形をどれほど可愛がっているかはよく知っている。もしも自分が踏んで汚したなどと知られれば、花蓮にくっついて出世する前に生命がないかもしれない――!
 真っ青になった世容は、持ってきた衣装に人形を包んで持ち出し、知る人ぞ知る鬼神的洗濯屋にクリーニングを頼んだのだった。
 これくらいの汚れならばすぐ綺麗になる、と言ってもらえた。一刻も早く元どおりにして、何事もなかったかのように陛下のお部屋に戻しておかねば――!
 洗濯屋からクリーニング完了の連絡が来るまで、生きた心地もしないで仕事をする世容なのだった。

 

 

 そして数日後――。
 天綸が朝議から部屋へ戻ると、衝立の向こうの榻に、何事もなかったかのように花蓮人形が座っていた。つぶらな眸をこちらへ向け、「お帰りなさい」と言ってくれている(ように見える)。
「戻ってきたのか!」
 天綸は人形を抱き上げ、異常がないか点検した。
 何も変わりはなかった。消える前と同じ、目がふたつ、口がひとつ、中に綿が詰まったふわふわの少女人形である。
 ほっと息をついた天綸は、榻に腰を下ろして膝に人形を載せた。糸で出来た髪を撫でながら訊ねる。
「長い散歩だったな。一体、どこへ遊びに行っていたのだ?」
 人形はつぶらな眸でご機嫌に微笑みながら天綸を見つめるだけで、何も答えない。そんな人形を相手に、勝手に話を続けることには慣れている天綸である。
「だが、おまえが消えてしまったせいで、いいこともあった。花蓮がやきもちを焼いたのだ。可愛い顔で『陛下の目の前にいるのは誰ですか』などと言ったのだぞ。あれははっきりと、悋気だったな」
 むにゅむにゅとくちびるを歪ませながら自分を見上げてくる花蓮の様子を思い出すと、顔が緩んでしまう。
「まあそのあと、おまえと間違えたことを怒られてしまったのだがな。仕方がないではないか――おまえが消えたところに、花蓮が私に嬉しい顔を見せたとなれば、疑うのも無理はないだろう」
 天綸は肩を竦めてから、人形の顔を覗き込む。
「もう私に黙って遊びに行くのではないぞ? 出かけたいならば私に言え。一緒に散歩してやるからな。――いや、ただし後宮へは行けぬぞ。おまえと手を繋いで歩いているところを花蓮に見つかったら、またやきもちを焼かれてしまう。花蓮とおまえ、左右から腕を引っ張られたら、私はどちらも選べずに身体を半分に裂くしかなくなってしまうからな」
 にやにやと人形に話しかけている皇帝陛下を、衝立の向こうから憮然と見守る宰相閣下だった。

〔おしまい〕