ときめきは、ふたりの甘い秘密の味!

 ここは麗鋒国の京師、景遥。
 都の北に位置する宮城の一角――龍尾宮は、毎度の説明が必要なのかどうかは置いておくとして、皇帝陛下の後宮である。
 龍の頭に当たる牡丹殿には、皇帝の寵愛篤い皇后と子供たちが暮らしている。
 季節は冬である。外には冷たい風が吹くある日の午後、皇后・淑花蓮は厨房に籠って夫へのプレゼント作りに励んでいた。
 そこへ、五歳になる娘の花梨がとことことやって来た。
「おかあさまー、なにをやっているの?」
 裳裾を引っ張って訊ねる花梨に、花蓮は鍋の中身を掻き混ぜながら答える。
「ちょこれいとを作っているのよ」
「えっ、ちょこれいとって自分で作れるの!?」
 花梨は、花蓮そっくりの丸い眸を大きく見開き、背伸びをして鍋の中を覗き込もうとする。西域から伝わってきた甘いお菓子『ちょこれいと』は、花梨も大好物のおやつである。
「元々の材料から作るというより、ちょこれいとをいったん溶かして、自分の好きな形に作り直すのよ」
「そんなの――おかあさまがわざわざ作りなおすより、買ったもののほうがきれいだし、おいしいんじゃないの?」
 身も蓋もないことを言う娘である。花蓮は苦笑しつつ、湯煎で溶かしているちょこれいとをぺろりと味見した。
「おかあさまー、わたしもわたしもっ」
 ぴょんぴょん飛び跳ねる花梨にも、ちょこれいとを掬った指を舐めさせてやる。
「あまーい! おいしー! これ、ちょこれいとをただ溶かしただけ? もうこれ以上、おかあさまが変なことしないほうがいいんじゃないのー?」
 台の上に並べられている様々な食材を見ながら花梨が言う。
「変なことって何よ……もう失礼な子ねぇ。この時期になると、陛下が私の手作りちょこれいとを欲しがるのよ。だから、仕方なく作ってあげてるの」
「どうして今? 今ってちょこれいとの『しゅん』なの?」
「旬というか……明日は西域の『ばれんたいんでー』というお祭りの日なのよ」
 花蓮から一頻りばれんたいんでーの説明を聞いた花梨は、小さなくちびるを尖らせた。
「おかあさま、かわいそう……」
「え?」
 幼い娘から同情を籠めた眸を向けられ、花蓮はきょとんとする。
「だっておかあさま、好きでおとうさまと結婚したわけじゃないでしょ? おとうさまが皇帝だから、けんりょくでむりやりだったんでしょ? 好きでもないひとのために、自分のだいじな趣味の時間をつぶしてお菓子を作らされるなんて、おかあさまかわいそう」
「……」
 花梨の純真な丸い眸から、思わずそっと目を逸らす花蓮である。
 ――ちょっと、教育を間違えちゃったかも……。
 初めての懐妊がわかった時、女の子が生まれたらいいなと思った。女の子なら、一緒に煌恋小説を読んで、一緒に煌恋歌劇を観て、楽しいときめきライフを母娘で過ごせると思ったのだ。
 望みどおり、生まれたのは女の子だった。毎日、煌恋小説を読み聞かせて育ててきた。《寸止我愛協会》の唱える二十巻ルールも、まだわからないだろうとは思いつつも熱く語って聞かせた。
 そう、生身の男なんてろくなものじゃないわ。物語に出てくるヒーローの方がずっと素敵。体温のある男に触られるなんて、真っ平御免よ――。
 結果、その英才教育(?)が、功を奏しすぎたようだった。花梨に大きな誤解を抱かせてしまった。
 花梨は、男嫌いの母が権力尽くで皇帝の寵妃にされたのだと思い込んでしまった。なまじドラマティックな政略結婚・略奪結婚の物語をたくさん聞かされてきたせいで、母親にもそんな物語のような悲劇が起きたのだと素直に納得してしまったのだ。
 ――本当は、陛下だけは特別なんだけど。
 生身の男に興味がないのはずっと変わらないが、それには(天綸を除く)と括弧書きが付くのだ。自分の意思で、皇帝である天綸の愛を受け入れると決めた。寸止め二十巻ルールを自ら破る覚悟を固めて、彼の腕に飛び込んだのだ。
 だが、わざわざそれを娘に説明するのも気恥ずかしい。
 そもそも、人前で天綸と仲良くすること自体が恥ずかしいのだ。花梨と天遊、ふたりの子供を生んだ今でも、人目のある場所で天綸といちゃいちゃすることが出来ない。だからつい、子供たちの前でも夫に素っ気ない態度を取ってしまい、そのせいで余計に花梨は「お母様はお父様に無理矢理妃にされたんだ!」と信じ込んでしまう。
 まずい悪循環である。いつかは真実を話さなければならないと思いつつも、
 ――お母様は本当は、お父様のことが大好きなのよ。だからちょこれいとも、心を籠めて作ってるのよ。
 なんて……そんな恥ずかしいこと、言えない言えない!
 ちょこれいとを掻き混ぜる木べらを手に、身体をくねくねよじっている花蓮を、花梨が不思議そうに見る。
「どうしたの、おかあさま? ちょこれいとの精にでもとりつかれたの? 甘いものを食べると踊りだす精霊なの? ばれんたいんでーは精霊のダンスパーティなの? 特別なちょこれいとを持っていたら、人間でも呼んでもらえる?」
 想像力豊かな娘のツッコミで我に返った花蓮は、慌てて首を振る。
「な、なんでもないのよ。さあ、邪魔になるからあなたはお部屋へ帰ってらっしゃい」
「わたしもてつだうー! おとうさまにスペシャルなちょこれいとを喰らわせてやるー!」
「喰らわせてやるなんて、そんな言葉どこで覚えたの。駄目よ、そんなこと言っちゃ」
「おとうさまなんて、ちょっと見た目が好男子だとおもって、調子にのってるのよ。おかあさまに片想いのくせに、ずうずうしいのよ。おかあさまも、あんまりおとうさまをあまやかしたらだめよ!」
 いっぱしの口をききながら、花梨はちょこれいとを型に流し込む作業を手伝い始める。幼い割に、手先は器用である。
「このハート型もつかうの? おとうさまにこんなかわいいのあげなくていいのに……」
 花梨の中で天綸はすっかり『女の敵』になっているようだった。
 ――陛下、ごめんね。いつかちゃんと説明するから……! 花梨ももうちょっと大きくなったら、わかってくれると思うから……!
 心の中で天綸に手を合わせつつ、中途半端にませてしまった娘と共にちょこれいとを作る花蓮だった。

 

 そして翌日――二月十四日。
 綺麗に包装したちょこれいとを携え、花蓮は龍臥殿へ向かった。
「花蓮! 待っていたぞ!」
 満面に笑みを湛えた天綸が、腕を広げて花蓮を出迎えた。
「今日はばれんたいんでーだぞ、花蓮」
「はいはい、わかってます。ちゃんとちょこれいと作ってきましたよ」
 花蓮が差し出した包みを受け取り、天綸は満足げに頷く。次いで、花蓮の腕を引いて膝の上に抱き寄せた。この龍臥殿では、基本的に天綸の膝の上が花蓮の定位置である。
「今年は、花梨も手伝ってくれたんですよ」
「そうか、花梨もそういう手伝いが出来る齢になったのか。ならばちょこれいとは別々に欲しかったものだな。愛する妻と娘から、ふたつのばれんたいんでーちょこ……夢のような話だ」
 天綸はうっとりと目を閉じて何やら夢想したあと、慎重な手つきでちょこれいとの包みを開けた。そして中を見て、小さく眉をひそめる。
「……む? これはなんだ?」
 ちょこれいとのひとつから、鼠の尻尾のようなものがピョンと出ている。つまみ上げてみると、本当に鼠の尻尾である。
「あ――きっと花梨の悪戯だわ……!」
 昨日、手伝うふりをしてこれを仕込んだのだ。
 天綸は苦笑いしてちょこれいとの包みを脇に置き、頭を振った。
「どうも私は、花梨に嫌われているようだな。一緒に遊んでやろうとしても、いつも断られるしな……。先日など、『おとうさまなんておんなのてきよー!』と腕に噛みつかれたぞ」
「すみません……ちょっと誤解があって」
 いつの間にやら幼い娘が強固な寸止め至上主義者になっていたことを説明すると、天綸は大きくため息をついた。
「――まったく、おまえが人前で素直になれぬせいで、私は娘にひどい男だと思われているのか。私が力尽くでおまえを自分のものにしたなどと、とんでもない誤解だぞ」
「……すみません」
 ばつの悪い思いで謝る花蓮を、天綸は力を籠めて抱きしめた。
「私がおまえに恋い焦がれているのは今も昔も本当だ。だがおまえ相手に、無理強いなど出来るものか。おまえに嫌われたら、私は生きてゆけぬ」
 天綸の胸に頬を寄せて花蓮は答える。
「私も――陛下が大好きです。それは本当なんですけど、煌恋小説の話になると、ついどうしても《寸止我愛協会》の教義を語りたくなっちゃって――それで、花梨が影響されちゃって……」
「おまえはこうして私のものになっても、いつまでも私を悩ませる娘だな」
 花蓮は顔を上げてぶんぶん首を振る。
「そんなことで悩まないでください! お仕事以外のことで、陛下に無駄な悩みを持って欲しくないです。そのうち、ちゃんと花梨に説明しますから」
「なんと言って説明するのだ?」
「そ、それはその――」
 ――お母様はね、お父様のことが大好きなのよ。無理矢理なんかじゃなくて、私たちは両想いなのよ。
 と、教えるべきなのはわかっている。だが、まだやっぱり恥ずかしくて、天綸本人以外に天綸のことを「大好き」などとは言えない……! 子供をふたり儲けていて何を今さらと言わば言え、それとこれとは話が別なのだ!
 花梨が成長して、両親の関係の真実を察するのが先か、その前に自分がこの照れ性を克服出来るか――むにゅむにゅとくちびるを歪ませている花蓮の顔を、天綸が覗き込む。
「おまえは本当に恥ずかしがり屋だな。まあ、そこが可愛いところなのだが――」
 眸を見つめてささやかれ、榻の上に押し倒されたその時。
 パタパタ軽い足音と共に扉がバタンと開いた。
「おかあさま、だいじょうぶー!?」
「か――花梨!」
 花蓮は慌てて天綸の身体を押し退け、起き上がる。ついでに榻の端までいざって逃げ、天綸との距離を開けた。
「おとうさま、おかあさまに『むたい』をしたらだめよ! おかあさまは、好きでもないおとうさまのためにちゃんとちょこれいとを作ったんだから、これ以上のことをのぞむのはぜいたくってものよー!」
「ああ花梨様、ここは花梨様がおいでになる場所ではありませぬ! さあさあ、牡丹殿のお部屋へお戻りを!」
 追いかけてきた宦官の張世容が、暴れる花梨を抱えて退室してゆく。だが去り際に、にたりと笑って一言残すのを忘れない。
「どうぞごゆっくり、存分にお睦み合いくださいませ……!」
 世容は、皇子と公主がひとりずつではまだ足りない、もっと子供を作れとうるさいのである。しかしあからさまに応援されると、これまた照れくさくてむにゅむにゅしてしまう花蓮だった。
 天綸は天綸で、
「娘の妨害で寸止めに遭うとは、切ない話だな……」
 などとぼやいている。かと思うと、少し皮肉げに口の端を歪めてこちらを見た。
「好きでもないお父様――か。本当にそうか?」
「だから、それは花梨の誤解なんですってば。私は陛下のこと、好きですから。本当ですから!」
 言葉で言うだけでは足りないと思い、花蓮は天綸の膝の上に飛び乗って胸に頬を擦り寄せた。
「私がこうやって自分から触れたいと思う生身の男は、陛下だけですから!」
 丸い眸の真剣な眼差しを受け、天綸は優しく微笑んで花蓮を腕の中に包んだ。
「おまえは本当に可愛いな……。そうか――そうだな、いずれは花梨からもちょこれいとをもらえる日が来るのを期待しつつ、今はおまえからの愛だけを味わっておくか」
 そう言って寵妃のくちびるをついばむ皇帝陛下だった。
 幼い公主様が成長して、両親の甘い秘密を知るのはもうしばらく後のことである。

〔おしまい〕